1995.1.17
もうすぐ30年。
そんなに昔のことだと思えないくらい揺れの恐怖は未だに鮮明に残っている。
もう死ぬのだ、と思ったことも。
ドラマ「ブラッシュアップライフ」のおかげで…。
毎週日曜日の夜に「ブラッシュアップライフ」というドラマが放送されています。
脚本は「バカリズム」。
ということで、最初は観ないつもりでいました。
いや、別に、バカリズムが嫌いなわけではなく。
頭が切れる賢い人だということはわかっているので、「シュールで凝りまくった作品なのかもな」「それならあまり興味ないな…」と思って。
なのに、何かの流れで第一回目の放送をみてしまいました。
そしたら、なんかこうバラバラのパズルがカチッと合っていくような仕組みの1時間で、気がつけば夢中になってみてしまっていました。
なんなら翌週は、母に視聴を薦めてしまったくらいで。
そんなわけで、今のところ、毎週欠かさずみています。
さて、そんな「ブラッシュアップライフ」ですが、わたしは、そのドラマのおかげで「よかったなぁ」と思うことが2つあります。
日曜日の晩の憂鬱さ半減
まず、1つ目は日曜日の晩の憂鬱さが半減したことです。
これまでは、日曜の晩?いや、夕方?いや、なんなら午後?になると、「あぁ、もう休みは終わりか…」「また一週間が始まるのか…」というどんよりした気持ちが襲ってきていました。
なのに、このドラマを見始めてからは、むしろ「日曜日の晩よ、早く来い」みたいな気持ちが生まれてきています。
ドラマの内容も、重いものではなく、気楽に見ることができるものなので、それもまた憂鬱さ半減に一役買っているのかもしれません。
不快な言動の人にも腹が立たない
2つ目は、「ちょっとドラマの世界に入り込みすぎ」とか「子どもか!」などと言われるかもしれませんが。
普段、日常生活を送っていると、時々ですが、「カチンとくる言動をする人」と遭遇します。
例えば「ぶつかってきても謝ってこなかったり…」「ルールを守らなかったり…」など些細なことなのですが。
これまでは、そういう人に遭遇したとき「うわぁ、嫌な感じ…」と心の中にモヤモヤが残ってしまっていました。
「なんでそんなことするんやろ?」「悲しい世の中やな…」みたいに。
ですが、先週くらいから、少しだけ軽く流せるようになってきました。
「あらら…あの人、来世は何になるんやろね…」
「イライラを出さずに笑顔でスルーできたわたしは、来世も人間か?」
という感じで。
そんなわけで、「ドラマのおかげさま」な今日この頃です。
おわり。
1995.1.17。
今日は1月17日。
阪神淡路大震災の発生から28年、だそうです。
先日、とある場所で「メモリアルギャラリー」に遭遇しました。
28年も経ったというのに、当時の写真を見ると、いまだにわたしはあのときのことを鮮明に思い出します。
揺れの衝撃、そのあとのいろいろなこと…。
そして、泣きそうになります。
当時は、地震はつらかったものの、まだ、子どもの立場だったので、「仕事がどう」とか「生活がどう」なんて不安はなく
その時代の写真を見ても、地震の数ヶ月あとには、もう楽しそうに部活をしている様子なんかが残っているくらいで
そう思うと、悲しくなる理由なんて、ちっともないはずなのですが、なぜかいまだにぎゅっと苦しくなるのです。
地球に住まわせてもらっている以上、仕方ないことなのかもしれませんが、それでもやっぱり地震は嫌いです。
写真って、結局は行動力なのかな?
いろいろな人の写真を見ていると、「写真って性格が出るなぁ」と思います。
いや、会ったこともない人たちなので、実際の性格なんて知りませんけど。
でも、なんとなく撮る人によって傾向があるというか、撮る雰囲気がそれぞれ違うというか、なんかそんな感じがします。
斬新だったり、ふんわりだったり、パワフルだったり、きっちりだったり、ロマンチックだったり、ダークだったり…。
「元々持っているセンスと性格とが合わさって形になったものが写真」みたいな気もしてきます。
わたしなんかは、わりと頭がかたいので、面白味も大きな特徴もない平凡な写真に仕上がってしまいます。
アートのセンスもありませんしね。
あと、最近は、「結局、写真って、技術よりも“良いロケーションを見つけられるかどうか”なんじゃない?」とも思い始めています。
例えば、みなさんの紅葉の写真なんかを見ていても、惹かれる写真って、そもそも場所が良いのですよね。
「すごいなぁ、このイチョウ並木」みたいな。
「ここ、きれいなぁ、紅葉の絨毯みたいやな」みたいな。
なので、「カメラの技術よりも、そういうところを見つける力・そこに出向く行動力の方が大事なのかなぁ」と思ってしまいます。
だったら行動範囲が狭いわたしには無理だなぁと。
…と、なかなか手応えがある写真が撮れないので、あれこれぼやいてしまうこの頃です。
嘆いていていも仕方ないので、小さな範囲でのんびり撮り歩いて、身近な場面を切り取ることをしてみていますが、上達への道はほど遠い感じです。
紅葉も終わったので、次の被写体はなんですかね。
おわり。
今週で今年が終わる。
本日は、12月26日(月)です。
まだまだ年末感がないので、「一週間の始まりだ」という気分だったのですが、カレンダーを見ると、そんなノン気なことを言っている場合ではないということがわかりました。
もう今週で今年が終わっちゃうのです。
本当に、あと一週間で今年を終わらせることができるのでしょうか。
まだ年賀状も買っていないのに、大丈夫なのでしょうか。
わかりませんが、なるようになる、と思って過ごします。
そろそろ年末だと自分に言い聞かせながら過ごします。
おわり。
追いCの結果、リーチがかかる。
CDを買ってしまった話を先日、書きました。
ama-shinon.hatenablog.com
で。
その日から、そんなに経っていないと言うのに、この度、また買ってしまいました。
(これは買う前の写真)
↑
この写真に1枚加わったので、アルファベットアルバムもとうとうリーチです。おめでとうございます。
ちょっと振り返ってみたところ、今年に入って20枚以上買っていることがわかりました。(シングル含む)
今回の購入でアルファベットにリーチがかかったわけですが、そのアルファベットに手を出したのは、今年2022年1月です。
たった1年でリーチです。だらだらペースのわたしのわりには、早すぎます。
昨年まで、「一度アルファベットに手を出すと止まらなくなるから、アルファベットだけはやめておこう」と、思っていたのですが、やはりその通りになってしまいました。
一度、買ってしまうともう駄目です。
ということで、ひたすら聞く日々が始まると思います。
おわり。
さらに、追Cをする。
前に追Cのことを書いたのは、いつだったでしょうか。
…どうやら先月みたいです。
ama-shinon.hatenablog.com
↑これを書いたのは、確かに先月ですが、書いたのが先月なだけで、これに載せていた写真自体は4月に撮影したものです。
ということで、それから数ヶ月。
この度、またもや、追Cをしてしまいました。
この頃、購入意欲は落ち着いていたので、しばらくは買うことはないかなと思っていたのですが。
なんか、急にきました。
前にも書きましたが、一度、「アルファベットアルバム」に手を出すと、やはり止まらなくなります。
コレクション的な?
揃えたくなる感じ。
このままいくと、そのうち、シングルも揃えたくなりそうな気がして、ちょっと怖いです。
(※これは今回買ったものではありません)
おわり。
カメラと趣味とわたし。
前回、カメラのことについて書きました。
数年ぶりにカメラを触り始めたという話を。
では、そもそも何故、今年に入るまで、数年もカメラを放置していたのか?
それは、前の仕事(学校)を辞めたのがきっかけだと思います。
前の仕事をしているとき、わたしは写真を撮るのが好きだと思っていました。
仕事中はもちろん、プライベートのおでかけでも、よく写真を撮っていたので。
だから、撮れる写真の幅をもっと増やすために、思いきってレンズ交換式のカメラを買ったわけです。
が、仕事を辞めて気づきました。
「わたしは写真を撮ることがそんなに好きでも嫌いでもない」ということに。
忘れもしません。
辞めてすぐに、近所に桜を撮りに行ったとき、そんなに楽しいと思わなかったことを今でもはっきりと覚えています。
あれこれ撮っても、「で?」って感じで。「だから何?」って感じで。
そのとき、わたしは考えました。
「なぜ、撮るのが楽しくないのだろう?」と。
で、行き着いた答えが、「これまでは“誰かのために”というのがあったので、張り切って撮ることができていたのだろう」「今は見せたい相手がいないから楽しくないのだろう」というものでした。
今でこそ、自分のための楽しみをいくつか持っていますが、当時のわたしは「仕事人間」で、趣味といえる趣味もなく、「誰かのため」というのがいろいろなことのモチベーションになってしまっていました。
カメラ(写真)もそうだったようです。
担任している子どもたちやその保護者に見てもらいたい、喜んでもらいたい、というのがあったから撮っていたのだろうと思います。
でも、仕事を辞めたあと、その「撮る目的」がなくなってしまいました。
なので、楽しくなくなってしまったのだと思います。
写真を撮るのが好き、というのは勘違いだったいうわけです。
それを知った周囲の知人は、「これからは、SNSに投稿するとか、フォトコンとかに応募するとか、そういうのを目的にしてはどうか?」などと言ってくれました。
が、どうもそういう意欲はわきませんでした。
当時のわたしは、やはり「自分のために自分が楽しむ」みたいな感覚はなかったので。
「別に知らん人にみてもらってもなぁ」
「応募もしたいと思わんしなぁ」
「撮っても“で?”で終わるだけやろなぁ」と。
そんなこんなで、カメラを放置する流れになった次第なのです。
それから数年。
なぜ、今年になって、カメラが復活したかは、自分でもよくわかっていません。
(ちょっとした撮影の機会があったのがきっかけではあるのですが)
当時と違って今は、例えば昨年からやり始めた「消しゴムはんこ」など、「自分で楽しめるもの」が持てるようになってきています。
そういう感覚が出てきたので、カメラに関しても、楽しめるようになったのでしょうか。
と言っても、満足いく写真が撮れたことなんて、ほんの少ししかないです。
でも、「悔しいな」と思って、「こういうときはどうすればよかったんやろ?」というのを調べたり、試したりするのも、また良しです。
出不精なわたしが、少しだけ出歩くようにもなりましたし。
何より、せっかく買ったカメラが無駄にならなくて本当によかったですので。
飽きっぽいところがあるので、いつまで続くかわかりませんし、忙しくなったら辞めてしまうのかもしれませんが、しばらくは楽しもうと思っています。
おわり。
カメラを持ち歩く。
数年前に購入したミラーレスのカメラ。
ずっと放置していましたが、今年は少しだけ持ち歩くようになりました。
季節の花を撮ったり、行ったところの記録がわりに撮ったり。
ときには、撮影のために少し遠出をしたり。
そういう日々を過ごしているおかげか、以前に比べると、通勤や買い物途中などに周りの風景に意識がいくようになった気がします。
「ここの花、きれいやな」
「ここからの風景、撮ったら素敵そうやな」
などなど。
とは言っても、カメラは奥が深すぎて、いまいちよくわかっていません。
いろいろな設定もわかってるんだか、わかっていないんだか、よくわからない状況でやっています。
適当?勘?実験?
ですので、撮れば撮るほど、よくわからなくなってきています。
「何時間も滞在して、大量に撮ったわりには、お気に入りは一枚もない」ということもあります。
あまりにもうまくいないので、
「普通のコンパクトカメラとか携帯で撮った方がきれいかもな」
「何も考えないで撮ってた頃の方が良い写真が撮れてたかもな」
と思うこともしばしばです。
それでも、今年の前半に撮った写真を見ると
「今なら、もっとこうするかも」
というような思いが出てくるときがあるので、以前に比べると、少しは上達しているのかもしれません。
なので、今は「1年後、同じシチュエーションで撮ったときにどうなっているか」を見ることを少し楽しみにしています。
ちなみに、対象物(被写体)は自然のものがほとんどです。
人を撮ることはほぼないので、撮れなくなってしまいました。
おわり。(つづく)
ama-shinon.hatenablog.com