ぐうたら人間のヒトリゴト~心・身・写・音・暮~

一人暮らしの日々、仕事のこと、世の中のことを日記・記録・メモ・独り言としてとりあえず綴る場所・・・

全国水平社創立から100年経ったけど。

3月3日といえば、やっぱり「ひなまつり」なのか?

わたしも以前はだったが、今はそれと同時に「水平社創立の日だな」とも思うようになった。



1922年3月3日は全国水平社が創立された日。

そして、今年は2022年。
なので、創立から100年が経ったということ。



100年ってものすごい年数。

「100年しか」ではなく「100年も」と感じる年数。


なのに、差別は今も存在する。

「100年も」経ったのに、差別はなくなっていない。



当時の人たちは、この今を見てどう思うんやろう?と思う。

強い想い、願い、覚悟などを持って立ち上がったのに、100年経ってもまだまだ苦しんでいる人がいるなんて。



人が人を差別するって、本当におかしいことやなと思うけど、それがなくなっていないのが今の現実。

じゃあ、今のこの状況でわたしにできることって何?と度々考えるが、ありきたりな言葉でいうと「差別を見抜き、差別を許さない子ども」を育てるということと、「わたし自身があらゆる人に優しくすることを心がける」ということくらいしか浮かばない。


複雑でギスギスして余裕がないこの世の中。
この状況で「差別ゼロ」にするなんて、不可能なのだろうか。



とにかく、今日は、水平社宣言を読み直そうと思う。

人の世に熱あれ 人間に光あれ

戦争孤児と上栗頼登さん。

<今日の川柳>
止まぬ雨 もしもに備えて 充電する

*****


先日、夜中にドキュメンタリー番組が放送されていました。

戦争孤児の収容所「広島新生学園」を自費で作った「上栗頼登(かみくり よりと)」という人の話でした。

上栗さんは、もう亡くなっており、その学園で育った方が昔を振り返りながら語ってくださる感じで番組は進んでいったのですが、番組をみながら色々なことを思いました。


そういう行動をされたのがすごい

うすっぺらい感想で申し訳ないですが、まず、そういう行動をされた上栗さんがすごすぎると、ただ単純に思いました。

しかも、上栗さんは子どもの扱いに慣れていたとか、そういう方でもないのです。

なのに、戦争孤児に手を差しのべようと思う、
思うだけでなく、実際に場所を作る、
本当にすごすぎます。

国の様々なことが機能していなかった時代だと思いますが、そうやって何もないところから行動をされた方がたくさんいたのだろうなと思いますし、そういう方がいたから救われた方もたくさんいたのだろうと思いました。

特に昔は「国の施策を待つ」のではなく、「自分が動く」だったのでしょうか。
「国」という大きな単位ではなく、「一人の人」という小さな単位で始まったことがあちこちにあったのかなと思いました。



いつの時代も犠牲者は子ども

当たり前ですが、そもそも戦争は子どもが始めたものではありません。

なのに、こうやって犠牲になるのはいつも子どもなのか…となんともいえない気持ちになります。
まだまだ小さいのに、急に身寄りをなくし、絶望感でいっぱいになる…
なんでこんな目にあわないといけないのだ?と思います。

生きていくためには、盗みをしないといけなかったという言葉も出てきて、子どもたちが追い詰められている状況がより伝わってきました。


少し状況は違うかもしれませんが、今もそうです。
「コロナだ」ということで犠牲になっているのは子どものような気がしています。

「会食を控えよう」と言われていても、こっそりどんちゃん騒ぎをしている大人。
一方で、「黙って給食を食べましょう」と我慢させられる子ども。

小さい体でマスクをつけて。楽しいイベントも我慢して。

もちろん、がんばっている大人もたくさんいるのですけど。



差別や偏見

ここで育った方が就職したとき、職場の人から差別をされたというような話をされていました。
しかも、その人の職場は学校。学校に勤めている方が心ない発言をするのです。意味がわかりません。

この人がいったい何をしたのだ?
戦争で親を亡くしたことの何が駄目なのか?
この人のせいなのか?

この人自身の努力でどうなることでもないのに、なぜ?
戦争孤児といわれる方はそういう偏見の目をずっと向けられ続けないといけないというのはおかしいのでは?

ものすごく悔しい思いになります、勝手に。


でも、そういう間違った感覚がまだまだたくさんあった時代だからこそ、そういう時代でも戦争孤児に手を差しのべた上栗さんは、やはりすごい方だと最初の感想に戻るわけです。





その時代にはびこる「価値観」というのか、「その時代、その環境の中での常識」みたいなものに惑わされず、
まっすぐに行動していくことは、なかなかできることではありません。

いや、できる人はたくさんいるのかもしれませんが、少なくともわたしは流されやすいので無理です。

ですが、「子どもが犠牲になっていないか?」という視点はこれからも大事にしながら働いていきたいなと思っているところです。


おわり。

特別企画「夏のハッピーキャンペーン」、やっと完成。

小学校で働いていたとき、学習に遊びの要素を取り入れるために、時々似たようなことをしていました。

「各自が“自分に出された問題”を解くことによってキーワードがもらえる」→「そのキーワードを全員合わせると、一つの文章(クイズ)になる」みたいな。

問題というのは、算数や国語が中心ですが。



今回、それをパクって(いや、パクるもなにも自分のを応用しただけですが)、甥姪向きの「夏のハッピーキャンペーン」を企画しました。
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作ろうと思ったのは、結構前です。7月中頃?
「今年の夏休みもコロナで遊びに行かれへんから、なんか面白いことないかなぁ」と思って。

一応、「夏休みイベント」のつもりでしたから、8月に入るまでには完成させる予定でいました。
が、なんだかんだで今になってしまいました。
きっと、もう夏休みの半分は過ぎていますよね…。



しかも、このキャンペーンは抽選で「図書カード」が当たります。

お得すぎます。
太っ腹すぎます。

いや、最初は「こたえ」を出してもらうだけで終わるか、自宅にある折り紙とか文具をプレゼントしよかな、というくらいのつもりだったのですが、先日、姪に「図書カードがほしいな」と言われたので(この企画に関してではなく誕生日だから)、「それならこのキャンペーンの賞品にしよう」と思ったわけです。



問題は、できるだけ「学校の宿題」っぽくないようにがんばりました。
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わたしだったら、夏休みは「ザ・勉強」みたいなことはしたくないので。

でも、この問題を「ザ・勉強」みたいなものにしたら、もっと早く作成することができたのだろうなと思いました。
問題のネタを集めるのに、少し時間がかかったので。


そんなわけで、封筒もそれっぽいのを作ったので、本日、ポスト投函予定です。
応募がどれだけあるかわかりませんが、のんびり待ちたいと思います。




ちなみに、冒頭に書いた「学校でも似たようなことをやっていた」という話。

実施したのは、特別支援学級で、です。

授業として…ではなく、「ミッション締め切り:○日の○時」として、それぞれが好きな時間に取り組めるようにして。

学習効果はどうかはわかりませんが、学年も実態も違う支援学級なので盛り上がりました。

普段はどうしても「それぞれ別の課題をする」「個々に違うことをしている」となりがちなので、「内容は違うけど、一つの課題に取り組んでいる」という感じが楽しいのかもしれません。
(良いのか悪いのか、「自分もしないとみんなが困る」と言うような責任感?存在意義?みたいなのも出るので。もちろんプレッシャーにならないようにはしますが。)



「あれ、できた?」「まだやねん、もうすぐ締め切りやな」などと空いた時間に声を掛け合って盛り上がっていたなと思い出した今回の「夏のハッピーキャンペーン」の企画でした。


おわり。

絵本が読みたい。

今日、こんなニュース記事を見かけました。
www.oricon.co.jp


もともとは「あっ、この商品、スーパーで見たわ!」と思いながら読み始めたのですが、読んでいる途中で、無性に絵本が読みたくなりました。

「一人で読む」でも良いですが、読み聞かせがしたい感じの衝動です。

子どもたちの前で絵本を読んでいるときのわくわく感がよみがえってきて、懐かしいような不思議な気持ちになりました。
みんなでホットケーキを作る前に、この記事に出てきた絵本を数冊読んだことがあるから余計に懐かしさを感じたのかもしれません。

ぐりとぐら
しろくまちゃん
ねずみくん…

さて。
何度か書いたことがあるかもしれませんが、わたしの場合、純粋に「絵本が好き」というよりは、「誰かに読むのが好き」なのだろうと思います。
(あまり長い本は避けてしまいますが)

絵本にじっと見入る子どもたちの表情。
子どもたちの感情が伝わってくるような感覚。
楽しさが共有できるようでわくわくする感じ。
わたしが気づいていないところに気づく子がいる面白さ。

うまく言えませんが、子どもたちの感情が動く様子を見るのが好きなのかもしれません。
芸人さんが、その仕事を目指した理由を「人を笑わせたいから」と言っているときがありますが、それと似たような感じかな?と思ったり思わなかったりします。

それにしても、絵本ってすごいですね。


おわり。


<追伸>
もちろん、ホットケーキもすごいですし、ホットケーキは大好きです。
一時期は、毎週末に山盛りのホットケーキ食べていましたから。
今も棚の中には、粉のストックがありますし。

学校は好きだけど、学校は嫌い。

学校の仕事を辞めて、1年が経ちました。

わたしが辞めた理由はいろいろです。
たくさんありすぎて、ちょっと忘れつつあるくらいです。

覚えている中の一つに「学校は好きだけど、学校は嫌い」というのがあります。
うまく言えませんが、「子どもたちがいるという意味では魅力的な場所だけど、職場として、そして、子どもたちの場所としてはいまいちだ」という感じです。


1・職場として
わたしの社会人スタートが私立の教育施設だったからそう感じるだけなのだと思いますが、学校は、余計なことがとても多いと思ってしまいました。
無駄に長い会議とか。
細かい組織とか。
もっとスリムに、もっとコンパクトにできるのではないか??と思うことがしばしばでした。

資料を読み上げる時間の方が長い会議なんて、何のための時間なのか?と、時間がもったいなくて仕方ありませんでした。
また、その会議中、熱心な表情で座って聞いている先生たちのことも、わたしは不思議で仕方ありませんでした。
「先生たちって、真面目な方ばかりなのだなぁ。すごいなぁ。」と、いつも思っていました。

来年度に向けての会議も、虚しさしか感じませんでした。
最初のころは、わたしも熱心に参加していましたが、会議で出た改善点や来年度への申し送りが、きちんと翌年に活かされない(引き継がれない)と知ってしまってからは、来年度に向けての会議も、ただただ無駄な時間にしか思えませんでした。

必要があるから会議をしているというより、会議という枠があるから会議をしているという感じに思えました。


2・子どもたちにとって
「多様性」とか「個性を大事に」などと言われますが、まだまだ「みんなと同じ」ということを求められるのが学校です。
ザ・昭和です。
いや、ザ・明治??
とにかく、なかなか窮屈です。

なにかにつけて、「揃っているのが美しい」という感覚を植えつけられるのです。
すなわち、揃えられない人はダメだということです。

「みんなちがってみんないい」と言われながら、「一糸乱れないのが美しい」みたいな指導を受けるのですから、とても矛盾しています。

ちなみに、「周りに惑わされず自分で判断しなさい」と言われますが、そのようにしたら「周りを見て考えなさい」と叱られます。
矛盾だらけで大混乱です。



そんなこんなで、今、書いたことだけが理由ではないですが、わたしは辞めてしまいました。
それでも、最初に書いたように「子どもがいる場所」なので、とても魅力的な場所だなとは思っています。

まぁでも、あれ以上いたら、ストレスでどうにかなってしまっていたと思うので、一旦、辞めてよかったとは思っています。

わたしは優しい人がいっぱいいる社会が良い。

1ヶ月くらい前に書きました。
ama-shinon.hatenablog.com


そのときの内容を箇条書きにすると、

人々が殺気だってきているというか、ギスギスしてきているというか、穏やかでなくなってきているというか、気持ちに余裕がなくなってきている、ということを感じる。

がんばっている人がつらい思いをしないといけないなんて、なんだか違う気がする。とてもやるせない気持ちになる。

こんな状況になったことがないし、気持ちに余裕がなくなるのはわかる。人って、弱い生き物なのだと改めて思う。

「みんなも大変なのだ」「みんな、必死なんだ」と、ちょっと想像・意識を広げるなど、自分のことだけじゃなく、周りのことも考えられるような人に、わたしはなりたい。

楽しい取り組み・心暖まる企画・これまでの技術をいかした新しい仕事などをされている人(企業)もたくさん見かける。ホッとするやりとりを見かけることもある。それに対しては、ただただ尊敬の気持ちでいっぱい。

というところでしょうか。


それ以降も、ぼんやりとこのことについて考えています。

「なんで、こんな風になるのかな…」
「なんで、優しくいられないのかな…」
「みんな、自分さえ良ければ、それでいいのかな…」などと。


考えた結果、思ったは「結局、みんな、不安なのだ」ということです。
(まぁ、考えなくても、わかることなのですが…)

その不安を適切に表現できないから、間違った方法で表現してしまうのかな、と思いました。


もちろん、そんな人ばかりではないのですけど、
でも、ギスギスした人がたくさんいる社会は、居心地は良くないです。

わたしは、優しい人がいっぱいいる社会が良いです。
(冷たいわたしが言うのも変ですが)


今、言うこととちゃいますけど、
「さみしい」とか
「こわい」とか
「不安」とか
「悲しい」とか
「つらい」とか
そういう感情を、みんな、我慢しがちです。

でも、我慢するんじゃなく、上手に表現することを
小さいときから丁寧に重ねていけるようにする必要があるのだろうなと思います。

そうすると、「むやみやたらに、人を傷つけること」は、きっと減ります。

いや、わかりませんけど、
そうなったら良いなと思います。


まぁ、でも、「人を傷つけること」が減ったとしても、「優しい人」になれるわけではないですね。

肝心の「優しい人」に、どうやったらなれるかは、わかりません。

「こどもの日」にちなんで、今年は本を数冊紹介する。

2018年と2019年のこどもの日は、本を紹介していました。

ama-shinon.hatenablog.com
ama-shinon.hatenablog.com


今回は、もう仕事もしていないので、無理だなと思っていたのですけど、3回続けたら、シリーズみたいだし、3回というのはキリが良い気がしたので、チャレンジしてみることにしました。
たぶん、来年はしません。

条件は、「昨年のこどもの日以降に買った本から選ぶ」です。


●教育事始(外川正明)
格差と不平等を乗り越える 教育事始
昨年の夏休みに読みました。
外川先生の今までの取り組みというか、エピソードが載っていて、とても勉強になりました。
「濃さ」を感じました。


●ケーキの切れない非行少年たち(宮口幸治)
ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)
昨年の秋に読みました。
特支につながるというか、「うん、うん」と頷ける内容だらけの本でした。
読んでいる途中に「この人、コグトレの人なのか…」と気づきました。


●校則なくした中学校…(西郷孝彦)
校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール: 定期テストも制服も、いじめも不登校もない!笑顔あふれる学び舎はこうしてつくられた
昨年の冬休みに読みました。
これと似ていますが、「学校の当たり前をやめた(工藤勇一)」というのも昨年に読みました。
どちらも中学校です。
小学校ではこういうことは無理なのかなぁ、小学校ももっとのびのびできる場所になったら良いのになぁと思いながら読みました。


●AIに負けない子どもを育てる(新井紀子
AIに負けない子どもを育てる
昨年の秋に買いましたが、読めたのは、先日です。
あまりにも分厚いので、そっと置いたままになってしまっていたのです。
「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」の続編みたいなものです。


●文化に出会い友だちに出会う…(羽田千恵子)
文化に出会い、友だちに出会う 障害の重い子どもたちと創る授業・教育・学校
昨年の秋か冬に読みました。
情熱とか温かさとかを感じる本でした。
これくらい子どもたちの内面に迫るような濃い日々を送りたいなと思った気がします。


●よのなかルールブック・生きかたルールブック
メシが食える大人になる! よのなかルールブック
ヤワな大人にならない! 生きかたルールブック
どっちがどんな内容かは、忘れてしまいました。


●ちゅーちゅー(宮西達也)
ちゅーちゅー (ひまわりえほんシリーズ)
「にゃーご」の姉妹本。
まず「にゃーご」に出てくる純粋なねずみと、その純粋さに翻弄されるねこが良いのです。
で、それをふまえた上での「ちゅーちゅー」は、良いのです。



本当は、いいなと思った本が、もうちょっとあるのですけど、タイトルを控えないまま、職場に置いてきてしまいました。
なので、紹介できません。
残念です。

9月入学制?

学校の休校が長引いてきている今、「9月入学」「9月新学期」の案が出てきているんだそうで。

9月入学が良いとか悪いとか以前に、なんで今なのだろう??と、ただただ純粋に思います。


「9月には、今の状態が落ち着いていて、感染の心配は全くありません」
「9月には、絶対に学校が再開しています」
という保証があるなら、まだ良いんですけど。

もちろん、地球規模で、です。
日本は落ち着いたけど、どこかの国では、まだ感染者数が減りません、とかではなく。

そんな保証はないと思うのに、「これを機に9月入学に…」となるのが、ちょっと意味がわかりません。

逆に、予想以上に事態が早く落ち着いて、7月から学校が再開できるかもしれません。
それでも、9月からって、ことなのですか?


そんなことより、「今年はこの学習はしません」「ここは、すっ飛ばしちゃってください」「入試もこの分野は絶対に出しません」などを全国で統一して決めたら良いのに、と思います。
学校再開が遅れても全ての子が損しないように。


*****


と言いつつ、ちょっとだけ妄想もしていました。

9月スタートということは…

卒業式
卒業式は7月なん?暑いなぁ。体育館で卒業式は無理やなぁ。
でも、暑すぎて、袴を避けてもらえるから、袴問題はなくなるなぁ、いいなぁ。
そもそも、卒業式も簡略化されるやろうから、いいかもなぁ。

入学式
9月に入学式っていうのも、暑いから体育館では無理やろうな。
卒業式もそうやけど、堅苦しい式とかにこだわりすぎやから、
ここらで、式を撤廃してくれてもいいな。
「入学おめでとう!いえ~い!」くらいでいいねん。

1学期(今の2学期)
結構、長いんやな。最初に長いのはいいな。

2学期(今の3学期)
寒いな。なにをする学期になるんやろな。
風邪が流行るから気をつけないとな。

3学期(今の1学期)
2学期と3学期の間に春休みはあるんかな。
ないやろな。必要ないもんな。
卒業間近に水泳学習があるんか、面白いな。

夏休み
年度末と年度始めが一番忙しかったから、
長い夏休みがここに当てはまるのは、めっちゃ助かるな。

同級生って?
学年の区切りは、どこになるん?
9月?
ということは、今まで同級生だった人たちと、急に学年が別になるっていうことか。
「わたし、10月生まれやから、また4年生やわ」
「わたしは、8月生まれやから、5年生やわ」って。
いや、また同じ学年をするのは、変やから、誕生日の区切りは今まで通り4月か?


ということで、個人的には、9月入学制はきらいではありません。


*****


が、今のタイミングで、それを考えるべきなのか?ということは、やっぱり思います。

もちろん、こういうことがないと、なかなか大きなことはできないというか、学校は変化を避けるところが多々あるので、今を逃すと、もうチャンスがないのかもしれません。

でも、ただでさえ、今は、学校が混乱しているだろうと思うのに、そんな大事なことを今のこのタイミングで考えないといけないのは、ちょっとつらいよなぁと。

今の混乱のどさくさに紛れて「9月からだよ」ってなるのでしょうか。

子どもたちにとって、今、一番大事なことって、何なのか。

わたしは、もう学校関係者じゃないです。
だから、無責任なことをあえて書いてしまいます。


学校が休校に入り、もうすぐ2ヶ月が経とうとしています。

2ヶ月だからというわけではなく、結構早い段階から「授業はどうなるのか」とか「学力保障」とかの話をちらほらみかけています。
「早く再開してくれないと格差がどう」とか。

なんか、ものすごくもやもやします。


何が正解か、わかりませんけど。
子どもがいないわたしなので、わかりませんけど。
もう大人になっているわたしなので、わかりませんけど。

いや、もう大人なので、あえて言いますけど、勉強なんて、大人になってからでもできます。
その気になれば、いつからだってできます。

勉強より命の方が大事です。
と、わたしは思います。

長い(か、どうか、わかりませんが)人生、ちょっとの間くらい勉強しなくても死にはしません。

もちろん、頭が柔軟な子どものときしかできない(吸収できない)こともあるかもしれません。

でも、命以上に大事なものはない、です。
死んでしまったら、勉強なんてできませんから。


そんなん言えるのは、わたしに子どもがいないからでしょうか。

いや、子どもがいたら、より思うと思います。
「子どもが元気でいることが一番大事」って。


今ももし、わたしが学校で働いていたとしても、学習の心配はあまりしない担任でいたと思います。

それより、「どんな風に過ごしてるかな」「楽しく過ごせてるかな」「ごはん、食べてるかな」「不安になってないかな」ということに重きを置いていただろうと思います。

「勉強、どうしよう。」となっている人がいたら、「大丈夫。学校が始まったらいっしょにがんばろう。今は健康第一で過ごしましょう。余裕があれば、家事とか、今しかできないことをやろう。」と。


2月末に休校要請が出たときだって、そうです。

「残っている学習はどうなるの?」「成績はどうするの?」という声が大人の中で出ましたけど、ものすごく、もやもやしました。
もちろん、それも大事なんですけど、でも「まず、それなん?」と。

急に最終日を迎えることになった子どもたちの気持ちの混乱というか、そのフォローや、急な最終日をどう過ごすか、の方が、わたしは大事だと思いました。


もちろん、学校は学習するところなので、きっと、わたしの考えが間違っているのでしょう。

学習は、大事ですもんね。
子どもたちにとっての「今」は「今」しかないですもんね。

でも、なあ。


オンライン授業の話もそうです。

仮に機器を整えて(配布して)取り組んだとしても、全て解決するわけではないですからね。

その時間に、授業を受けられる体制に入ることが難しい子も出てくると思います。
生活リズムが整いにくい家庭環境の子もいますから。
勉強スペースがなく、ドタバタしながら暮らしている子もいるでしょうし。

「意味がないから、するな」と言っているわけでなく。
どんな方法でも格差は出てくるよ、ということが言いたいだけです。


なので、今は「焦らず、待とう。」「勉強は、学校が始まったらぼちぼちやっていこう。」くらいのスタンスでいけば良いのにと思うこの頃です。

ついでにいうと、日本全体がそういうゆったりペースになってほしいです。大人も子どもも。

まぁ、こんな方針のわたしだから、「学校」というところと合わなくて辞めてしまったのでしょうけど。



※頭の中がまとまっていない状態で書いたので、ちょこちょこ書き直すかもしれません。

新型コロナウイルスをきっかけにして世の中の価値観が良い方に変わると良いな。

前に書いたこれ。
ama-shinon.hatenablog.com
みんなが協力しないと乗り越えられない状況の今、これを機に世界中が争うことの無意味さに気づいて平和になれば良いなと思って書いたもの。

それと似ていますけど、この経験というか、今の状況から、みんなの価値観が良い方に変わると良いなと思っています。


体調がよくなかったら休む
わたし自身もそうですけど、「体調管理も仕事のうち」みたいな考えとか、多少しんどくても無理をする、みたいな感覚があります。
多少の熱なら出勤してしまっていました。

「体調がよくないけど出勤していた」という人たちが責められている今ですが、そもそも「休む」と言い出しにくい環境に問題があると思いました。
そういった雰囲気・価値観がなくなり、「しんどかったら遠慮なく堂々と休める」みたいな風土が社会全体にできるといいなと思います。


学校の存在
前から気になっていたのですけど、「学校に行くのが当たり前」みたいな感覚が存在します。
わたしはそうは思いません。
また別のときに書く方が良いのだと思いますが、「学校に行くのが当たり前」というのは思い込みというか、ただ洗脳されているだけです。
学校に行かなくてもこういう学び方ができるよというのが、今、バンバンでてきたら良いなと思います。
(もちろん、「学校」を否定しているわけじゃなく、学校の大切な役目もわかっているつもりです)


命・安全
前に書いた平和のことと似ているかもしれませんが、こういう状況になると、今まで「当たり前」だったと思っていたことが、「本当にありがたいことだった」とわかります。
人と会って食事を楽しむこと・休みの日にショッピングに行くこと・学校に行けること…。

何より、「健康」というか「命」や「安全」がまず大事だということも多くの人が感じている今だと思います。
まだまだ何かと競いあうような争うような競争社会なところがありますけど、そうじゃない社会に、さっさとなれば良いなと思います。


政治・選挙
こういう状況になると、国としての対応が注目を浴びるようで、安倍さんに対しての批判を目にすることが増えました。
普段は、政治に興味がなくても、こういう状況になると、やっぱり「自分事」になるので、関心が高くなるのかもしれません。
(というか、頼らないとやっていけないくらい自粛に追い込まれているのだとも思います。)

これを機に、選挙にいく人が増えると良いなとか、若い人がもっと政治の世界に参入してほしいなということを思います。
どさくさに紛れて言いますけど、あんな世間知らずな人・苦労を知らない人に政治を任せていたら駄目だと思います。
もっと、社会経験が豊富な人が出てきてほしいです。
ama-shinon.hatenablog.com


以上、思いつくままに書きました。
のんきな内容なので、書かない方が良かったのかもしれませんが、ここで大きく変わって暖かい社会になれば良いと本当に思っています。
でも、まず何より、少しでも早く終息してほしいですし、感染してしんどい状況にある人がこれ以上増えないでほしいなと思います。